おーえる放浪記

毒親から離れ、色々なところを転々としています。ミスiD2019ファイナリスト。Twitter@MC88009062

幼いころの話①〜母との関係など〜

幼少期、母と離されることを異常に嫌がり泣く子だった。外国人の母は「はいはいそんなに私が好きなのねと」そのたびに満足気にわたしを見た。

 

そして今、私は母親から逃げている。もうかれこれ五年は母に会っていない。正直、母が死ぬまでなるべく会いたくない。

 

わたしは真面目でちょっと変わった日本人の父親と気の強い中国人母親の間に生まれた。今になって思い返せばふたりとも他人が嫌いで、友達がいなかった。

 

幼い頃は絵が得意で、ワガママ。そして泣き虫で素直。悪いことをしたら自分から泣いて自白する子供だった。

 

アトピーがひどくて母はそんな私にかかりきりだった。私のために中国で漢方薬を探したりもしてくれた。母はよく「辛そうだから変わってあげたいくらい」と人に話してたのを思い出す。 

 

しかし私が母に甘えると「気持ち悪い」と言って拒否する人だった。また、私が子供のように可愛がっていたヌイグルミを捨ててしまう人だった。妹のヌイグルミは何故か捨てらず、私のだけだった。理由はよく分からない。恐らく「いつまでも子供っぽいことしてたら真面目になってくれかいかもしれない。」とか思っていたのかもしれない。それか、母が貧しい育ちだから私に嫉妬したのかもしれない。今思い返せば、異常な行動だと思う。子供の私は辛くて泣いていたがどこの家庭もそうゆうもんだと思っていた。

 

小学校に上がるとバリバリの発達障害児の特徴でまくりだったが親からも学校からもその疑いはかけられず、ただの落ち着きがなく、集中力が欠けていて、だらしがなく、泣き虫で友達からもマイペースでちょっと特異な子だと思われていた。そしていつも教師から言われたことが「その気になればできる子」

 

当時の私の頭の中はBB弾のことで頭がいっぱいだった。登校途中の草むら道に転がっている白やオレンジ、グリーンやイエローの透明のBB弾を拾いたくて拾いたくて仕方がなかった。それを家の裏に隠して日々そのコレクションを見るのが好きだった。何故落ちているのかどこから来たのかも、わからないが不思議なキレイな玉。BB弾を探して遅刻。行方不明なんて日常茶飯事だった。

 

小学校も高学年になると私はBB弾なんか忘れてギリシャ神話の世界にどっぷりハマる。友人関係は仲がいい子は数人いたがこのころから、グループというものができていて、他のグループに急に入ってはいけないとかそんな暗黙のルールがあることに気づいてなかった。なんだかとにかく鈍感で人の悪意に気づかない。まさに「空気の読めない」子。

 

そんな私を快く思わない女子2人もいた。二人共ボーイッシュで背が高くて美人。わたしは意地悪をたまにされていたが、他人の悪意に気づけない子だったので気のせいとか思っていた。でもやっぱりちょっと怖かったので話しかけないようにしていた。

 

小学校五年生の中頃になると母は私に中学受験をさせようと躍起になる。

そしてここから私が母に疑念を持つようになるのだが、長くなったので続きはまた今度。

 

(ΦωΦ)読んでくれてありがとう。。