生きるって無理矢理
朝、起きてお腹があまり空いてないが無理矢理パンを口に入れる。
満員電車に人を押し込んででも無理矢理、乗り込む。
エレベーターで上司と乗り合わせて無理矢理に笑顔を作る。
仕事が終わらないから無理矢理デスクで昼食。
残業しすぎると怒られるから残った仕事を無理矢理終わらせる。
嫌いなビールを付き合いだからと無理矢理流し込む。
二軒目に無理矢理付き合わされる。
帰りも満員電車に無理矢理体をねじ込んで。
夜は疲れてるけど明日も仕事だから無理矢理シャワーを浴びる。
ちゃんと生きるってきっと無理矢理だ。
正常に生きてるってきっと無理矢理だ。
図々しくなれない私はそう感じる。
おそらく私達の世界は他人を押し潰してでも無理矢理、社会に自分の体を入れなければ出遅れ、不適合というレッテルを貼られるという構造になっている。
そもそも日本は人が多すぎる。恐らく少しぐらいズルいことをしないと自分の席なんて確保できない。日本は少子化なんて嘘だ。何故未だに満員電車に乗って通勤しているのだろう。
子供の頃からフルーツバスケットが苦手だった。早いものがちの席取りが苦手。叔母から「そんなボーッとして余裕かましてるからダメ。結婚に乗り遅れるタイプ」と言われたことがある。
ライブでも劇でもなんでも横入り、人ごみを押し分けて前列で見ようとする人はきっと社会適合者、仕事のできる人、結婚に出遅れない人なのだろう。人が多いのだからズルいことをしないと良い思いなんてできない。
しかも恐らく、ズルい人は私のように生きることは無理矢理だとも思ってない。人を押しのけることが自分の当然の権利だと思っている。そんな人たちみたいに私も図々しくなれればなと思う。図々しいことが正しい世の中なのだ。
でも私にはできなかった。体がもたなかった。そんな私はどうやって生きたらいいか模索中である。