おーえる放浪記

毒親から離れ、色々なところを転々としています。ミスiD2019ファイナリスト。Twitter@MC88009062

私と父②

~私と父①の続き~

 

父は私の小さかったころから、ずっと男の子が欲しいと言っていた。

でも生まれたのは二人の女の子であった。父は昔から私たちとどう接するべきか戸惑い、尚且つ家庭より仕事を優先している印象があった。その反面、中国から一人嫁いだ母は孤独に子育てをし、私達姉妹への干渉はひときわ強かった。父の印象はいつも母の陰に隠れ、任せきりで存在感が無かったせいかあまり父の記憶がない。でもほしいものはすべて買ってくれた記憶がある。「買って買って」と駄々をこねられるのが面倒だったんじゃないかと今になって思う。

 

私は父の意思がどこにあるのかいつも分からなかった。家庭の中の父は母の起こした波にただ漂うだけのクラゲのような存在だった。その印象は私が大人になるまでかわらずそうであった。だからなんとなく父とは自分の本心で対話したことがなかったんだと思う。顔を合わせてもどことなく気まずさがあった。おそらく父も私の脳内が見えなくて私とどう向き合うべきか分からなかったんだと思う。

今から数年前、祖父が死んだ。

そのとき、母が親戚とトラブルを起こした。喪主だった父はただモゴモゴとなにか呟くだけで親戚に対してなにか言うこともなかった。謝るなり、何かしなければいけなかった立場なのに、いつものように何もできなかった。私はそんな父に心底失望した。迷惑をかけた叔母に頭を下げながら私は「この家族を捨てよう。」そう思った。

 

それから私は一度も母に会わずに台湾へ行った。今も母とは距離を置いている。父には台湾に行く前に一度だけ、叔母が食事の場を設けてくれたので会ったが例の事があり、そこまで父と話す気になれなかった。

 

 それは台湾から日本に戻ってきてもそうだった。父に対しては相変わらず失望していた。おまけに私の精神はめちゃくちゃ不安定だったし、ぶっ倒れたり、食事も睡眠もロクにとれない日々が続いていた。父が私の状態を聞くことがあっても「どうせ何もできないくせに」と怒ったりしたいた。とにかく父を信用できなかった。自分だけで戦わなくてはと思っていた。悪夢の中を毎日ぐるぐるぐるぐる過ごしてるみたいでキツかった。

今思えば、父も父なりに試行錯誤して歩み寄ってくれたのだと思う。叔母いわく、私が何年も連絡を経ったことがショックだったらしく、変わろうと努力をしたみたいだ。いままで母の介入なしに何かするということがなかったのに、私のために本なども買ってこっそり勉強してくれていた。今までそんな事なかったからびっくりした。父は私のために部屋を掃除したり、やっていなかったラインを始め、こまめに連絡を取り合い、辛いときは会いに来たり、電話でゆっくり話を聞いてくれた。そうして少しずつ少しずつ私は自分の事を話すようになった。父はやっと私と向き合ってくれたんだと思う。

数年前、家族を捨てようと決めたとき、私は本当にもう父とは一生会わないと思っていた。以前に読んだ家族に関する本を何冊か読んでいたのだがどれも「人間は年をとるとなかなか変わらない。」とどの本も書いてあったので私と父の関係も変わらないと思っていたが、お互い歩み寄れば変わるものなのだなと思った。私の人生で今ほど父との関係が良好な時期はない。

 

もし私と同じ父親、もしくは娘との関係に悩んでいる人がいるならと思い、今回のブログを書いてみた。私にとっても意外な出来事だったので人生は本当にわからないものである。

 

最後に父は私に昔から一貫して言ってきたことがあってそれは「お前はいつも詰めが甘い。」と「作家になれ。」だった。詰めが甘いは皆からとてもよく言われる。作家になれは本気にしていなかったが、なんとかして頑張ろうとしている。

私は何者かになれるだろうか。

そして私はまだ父にミスコンを受けていることを言っていない。