おーえる放浪記

毒親から離れ、色々なところを転々としています。ミスiD2019ファイナリスト。Twitter@MC88009062

私と父①

先日、父がステーキ屋に連れてってくれた。その日、私は一日何も食べてなくて、お腹が空いたと言ったら連れてってくれた。夜の九時だった。父はもう夕飯を済ませていたらしく、私の前でお茶だけ飲んでいた。私は注文したハンバーグを食べながら父と他愛もない会話をした。

 

レストランからの帰りの車中、車を運転する父の後ろ姿にじんわりと涙がでた。自分はこの年にもなってまだ手に職がつけられていないし、結婚もしていない。掃除もロクにできないし、父に迷惑をかけながら好き勝手生きている。でも父はいつも何も言わないのだ。父は優しい。気付かれないように後部座席で涙をぬぐった。

 

私はこの年になるまでずっと父が苦手だった。父も私が苦手だったのだと思う。

 

去年、私は夢破れて台湾から日本に帰ってきた。憧れであった海外での仕事を見つけるため、頑張るのなんて大嫌いなのに、これ以上ないぐらい頑張って職場を見つけた。その職場で私はどうだったかというと、ただただ役立たずだった。何をしてもダメだった。私はとにかく失敗を繰り返して、同僚の冷ややかな目と態度に焦って、さらに失敗を繰り返し、ついに私は会社に行かなくなった。白旗を挙げて自分を諦めたのだ。

 

自己嫌悪が身体にのしかかってベットから起き上がることができなくなった。あのとき私は「ああ…自分はやっぱり世の中に不必要な人間だった…」と嘆き、本気で死のうかと考えたりもした。

正直、予想通りだった。うすうす勘づいていた。私はずっと怖かった。幼いころから人との交流が苦手だったり、相手の言葉や表情からの意図を上手く受け取れなかったり、みんなが普通にできるような色々な事が下手だった。男性恐怖症もなかなか拭えなかった。でも認めたくなくて自分を諦めたくなくて挑戦しながらも失敗や目線に怯え、生きていた。苦しかった。なんで自分はみんなと同じように生きれないのかといつも悩んでいた。だから自分を諦められたとき、失望と同時に安堵した。やっと無理していた自分に無理しなくていいよと言えた。やっとできない自分を抱きしめて、もう頑張らなくていいと言うことができた。実に20年もかかった。でもやっぱりわかってしまったからどうやって生きればいいかまた悩みひたすら辛かった。

 

そんなとき、見かねた隣人に父に電話するよう諭された。

 

正直、頼りたくなかったが勇気を出して国際電話をかけた。父はすぐに出た。いつもの焦った感じの声がした。私は「ちょっと具合悪くて‥」と言ったそばから涙が溢れてきた。父は「帰ってきなさい。お金のこと全部気にしなくていいから」と言ってくれた。信用していいのかわからなかったが私は泣きながら「うん」と言った。何年ぶりかの親子の会話だった。

 

 

 

 つづく